二度の流産を越えて

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まりも

人生にさ迷っていた大学院時代に北の大地でキリスト教福音宣教会に出会い、無神教バリバリの理系っ子から転身。製薬業界勤務を経て、結婚。結婚後は子宝を望むがなかなか恵まれず、流産を繰り返す。それでも前向きに、現在は第2子妊娠中。

 

一人目の妊娠と1回目の流産

最初の妊娠も希望通りにはなかなかいきませんでした。
結婚が遅かったので、早く子供が欲しいと願ったのですが、授かれず、生理が来るたびに泣いている私をみて、旦那さんはもう諦めてもいいと言ったときもありました。二人で仲良く暮らしたっていいじゃない、と。
それでもダメなら不妊治療の検査を受けるべきかと悩み始めた頃、第一子を自然に妊娠することができました。
つわりや妊婦湿疹もひどく、決して順調な妊娠生活ではありませんでしたが、出産は安産で、元気な男の子を産むことができました。

それから一年後、願っていた第二子を妊娠しました。
小さな命は小さすぎて、病院の先生に妊娠週数がずれているのではないかと言われました。しかし、第一子の時も、成長が遅く、なかなか妊娠届を出してもらえなかったので、この子もゆっくり成長するだろうとあまり気にしませんでした。
まだ授乳もしていたので、お盆の里帰りのため、妊娠中、かつ授乳中でも飲める酔い止めを探し回ったことがありありと思い出せます。

無事里帰りも終わり、次の検診にいきました。
やはり、胎芽は小さく、まだ心拍が確認できませんでした。
病院の先生も、そういうこともあるからと私を不安にさせるようなことは言わずに検診は終わりました。
その夜、旦那さんは数日前から海外出張だったので一人で子供の寝かしつけをしていました。
いつもよりスムーズに子供が寝たので、一人静かな夜を過ごしながらそろそろ寝ようかなと思ったとき、子供が寝ぼけて泣き始めました。
なだめていると、何か変な感じがしたのです。
それで慌ててトイレに駆け込むと、出血。
これは普通じゃない。やばい。そう感じたものの、寝ぼけたままの子供はトイレの向こうで大泣きしたまま。家には自分の他には誰もいない。
まずは目の前の子供をなんとかしなければと、もう一度子供を寝かしつけていると、いつのまにか自分もウトウトしていました。
そのうち、またすごく変な感じがして慌ててトイレへ。
もう大量の出血が止まらなくなっていました。
パニックになりながら、神様!この子を助けてください!!と祈るものの、血の塊が出てしまったのがわかった時「ああ、私は今、命を失ったのだ」と直感的に悟るしかありませんでした。

 

流産の後

幸い、流産処置をする必要がなかったため、母体へのダメージは最小限のものでした。
それでも、呆然とする思い、突然に命を失った悲しみはあまりにも深くて、しばらく笑うことができませんでした。

どうしたの?と愛らしく笑う子供を抱いて、ただただ時間が過ぎるのを耐えていました。

旦那さんが出張から帰って来て、私は一番に慰めて欲しかった。
でも、今思えば彼も私にどう接すればいいのかわからなかったのです。
私が話し始めて、泣き始めるたびに、思い出して咽び泣くたびに、彼は何も言わずに私に背を向けました。
それも本当に辛かった。
それはまだ命とも呼べなかったんだ。君が無事だったならいいじゃないか。
そう言われるほど、すでに「母」となっている自分にはあまりにも辛い言葉に聞こえました。

それでも、神様を恨むことはありませんでした。
祈ったのになぜ助けてくださらなかったのか。なぜ流れる命を授けたのか。
そのようには考えなかったです。
何か理由があるだろう。神様の御心があるだろう。
それだけを信じました。

そして、最初はそれが命であったことを認めないようにして、なかったことにしようとした旦那さんが、失った命のために祈ってくれた時、私はまた前を向くことができるようになりました。

その子が生まれたら、どう生きるはずだったか。神様はなんのために命を創造されるのか。

それを摂理で学んだ私たちだからこそ、その子に天国でどう過ごしてねと、わかって祈ることができる。

その子のために親としてあげられることがある。

それが、自分にとっても大きな慰めとなりました。

しかし、その子は私たちに多くのプレゼントを残していってくれていました。
その1つが家です。当時、エレベーターのないアパートの3階に住んでいた私は、まだ抱っこの子供を抱えたまま、次の妊娠期をこの家で過ごすのは無理だと感じていました。

そこで、様々なタイミングもあり、二人目の妊娠がわかった時に本格的に家の購入を考えていたのです。

そして、流産の直前、ちょうど良い物件をついに見つけることができ、契約へと進もうとしていました。
その家で過ごそうと願っていた二人目の子は失いましたが、自分たちが願った以上の物件を、ギリギリ手に負える金額で購入することができました。

物件との出会いも本当にタイミング。

消えた命が背中を押してくれて得たプレゼントだと今も私たち夫婦は思っています。

 

二回目の流産

そのまた一年後、再び妊娠をしました。
以前のことがあったので、旦那さんには期待しすぎないようにと何度も言われました。

私がまた泣くのを見たくないと彼なりの優しさだとわかっていても嬉しいのに喜べない複雑な気持ちでした。

慎重に過ごし、検診に向かうと、また小さいと病院の先生に言われました。前回のことがあったので、非常に嫌な予感がしました。
案の定、しばらくすると出血が始まってしまいました。
それでも、慌てて病院に駆け込んだ時点ではまだ赤ちゃんはゆっくり、ゆっくりと成長が見られたので「この子は生きている!!」と希望を持ちました。

大丈夫、赤ちゃんさえ生きていれば、踏ん張ってくれれば。

そういう思いで、病院から出された張り止めと止血剤を命綱のように思って、必死で祈りながら飲み、絶対安静の日々を過ごしました。

今回は旦那さんも上の子の面倒を全面的に見てくれ、私はとにかくお腹の子供を守ることに必死の思いでした。
そして、日曜日。旦那さんと子供は礼拝に出かけ、私は一人、家で安静を守ったまま、モバイルで説教を聞いていました。

その途中でした。

突然の大量出血。

そして、ほんの瞬間のこと。

塊が体の外に出ていくのがわかると、また、命が失われたことを身をもって悟ることになりました。

とにかく説教を最後まで聞いて、それから旦那さんにダメだったと連絡を入れました。

病院に電話して、来れるなら来てくださいと言われ、そこまでは淡々と進めていきました。
旦那さんには一人で行くと言い張って準備しようとした時、ぷっつりと何かが切れてしまって、そのまま泣いて動けなくなってしまいました。
それでも、頑張って電車に乗り、病院に着くと、旦那さんが子供と一緒に来ていました。

今度は彼は逃げないでくれました。私の痛みに寄り添ってくれました。

新生児室の前で泣き崩れた私を助産師さんから引き継いで、休みで誰もいない待合室で落ち着くまで待ってくれました。
覚悟はしていても、ショックはショックでした。

 

しかも二回連続となれば、単なる偶然ではなく、不育症の可能性もある。もう二度と、子供は望めないかもしれない。
心配する旦那さんに、また頑張ろう!と笑って見せた表面的な気持ちの切り替えとは裏腹に、深い傷から当分立ち直れないのではないかと感じていました。

 

流産後と不育症検査

それでも、再び私を立ち上がらせてくれたのも信仰でした。

 

どうしても辛くて、無気力になりかけていた時、用事で嫌々教会に足を向けるようになりました。
まだ、誰にも会いたくないような時でした。
そこで、何気なく賛美を歌っていると、ここ数日のことが急にフラッシュバックして、堪らずに涙が溢れました。
突然のことに自分でも動揺していると、急に「神様が一緒に泣いてくださっている」という強い感動が来ました。

私の痛みに寄り添ってくださっている。

共に悼んでくださっている。

その感覚で、ぽっかりと空いてしまった心が満たされるようでした。

神様が私を不幸にしたくてこのようなことが起こっているのではないということは絶対に信じていました。
でも、なぜ?という思いと悲しみの感情の行き場がなくて、自分の中で腐って行くようでした。
それが癒されるような感覚でした。

側には旦那さんもいました。

今度はちゃんと、一緒に向き合ってくれている。

これもきっと御心があるんだ。

再びそう信じて、私は前を向くようになりました。

そのすぐ後、たまたま私が流産したことがあることを知った人が、最近流産したことを誰にも相談できずに苦しんでいる人がいるので相談に乗ってあげてほしいと連絡をくれました。その人は私が二度目の流産後であることは知りませんでした。
しかし、この連絡を聞いて「私はこの人のために今回の経験をしたのかもしれない」という強い思いに襲われて、急いで連絡を取り、会いに行くようになりました。

話をしながら、仮にこの人のために私が再び流産を経験したのだとしても、私は犠牲になったのではない。神様がこの人をそこまで愛するように、私のことも愛してくださっている、ということがものすごく感じられました。そして二人でたくさん泣きながら話をしました。

それで、今回も御心があったんだ、無駄なことではなかったんだ、と一度は思えました。

しかし、たまたま教会内で妊婦さんが多かった時期でもあり、自分がそういう妊婦さんの相談も乗ってあげていたこともあり、新しい命を祝福したい思いと、素直に祝福できない自分の葛藤がしばらく続き、精神のバランスを崩し始めました。

感情がコントロールできなくなったり、ぼーっとしてしまったり。

しばらくそんな状況でしたので、用事がある時以外は、できるだけ人を避けて、ポツンと端っこから遊んでいる子供を眺めている日々が続きました。

このままではいけない、そう思って、思い切って不育症の検査を受けて見ることにしました。

しかし、専門のクリニックは予約がなかなか取れず、子供連れではいけないため、子供を預けられる日を調整するうちに、予約は何ヶ月も先になってしまいました。
それでもなんとか淡々とすべきことをこなし、検査も受け、結果を待ちながら過ごしていたある日、友人の結婚式に招かれるようになりました。

私はまだ、心から笑ったり、人を祝福できない自分を自覚していたので、正直乗り気ではありませんでした。

しかし、家族みんなを招待してくださったので、自分よりも子供の服やら何やらと準備するうちに、少しずつ楽しみになってきていました。

そして当日。

自分でもびっくりするほど、素直に笑い、そして心から新郎新婦を祝福する自分がそこにいました。

むしろその瞬間、自分の中で何かが突き抜けたのを感じました。
私は恥ずかしながら信仰を持った後も、人を心から妬まないということができていませんでした。

どこかで羨む気持ち、自分の方がもっと優れていると比較してしまうところを100%捨てることができていなかったと思います。
それがその瞬間、消え去ったのがわかりました。

ずっと捨てることができずに苦しんでいたものでした。

そして、代わりに湧いてきたのが、もう自分は子供が産めないのだとしても、自分の子供ではなくても、これから生まれてくる子供達のために、できることを最大限しよう、自分の子供だと思って。

そういう思いでした。

 

4度目の妊娠と妊娠悪阻

そうして決心をした私は動き出しました。

まずは教会の子供達のために、自分が考えうる活動に次々と着手し始めました。
そしてそれがある程度軌道に乗り始めたその矢先のことでした。また妊娠がわかったのです。

今までのことがあったので不安の方が大きく、素直に喜べず、いつまた出血するのではないかという恐怖に襲われる日々でした。
しかし、私の心配とは裏腹に経過は非常に順調で、お腹の赤ちゃんはすくすくと育っていきました。

その一方で、妊娠がわかるのと同時くらいから激しいつわりに悩まされることになりました。

一人目の時も寝込んで、かなり体重が落ちたので、ある程度は覚悟していました。
ところが、前回の経験による数々の対応策を実施しているにもかかわらず状態はどんどん悪くなり、最終的に水分も全く取れなくなってしまいました。
周りの人の勧めもあり、病院に行くと、すぐ入院を勧められました。

しかし、ちょうど妊娠がわかったのがコロナウイルスが本格化した頃だったため、遠方の両親や自治体のサポート、周りの人の協力を得ることが難しく、子供を家に残しては置けないので点滴でしのぐことにしました。
また逆流性食道炎を併発したため、その薬と吐き気どめ、点滴を使いながらピークを乗り越えることに必死の日々でした。

家にいてもほとんど寝たきりで子供の相手もできず、家事もできない状況が3ヶ月近く続きました。

最初は友人に助けてもらったりもしていましたが、コロナウイルスのこともあり、ほとんど在宅勤務になった旦那さんに全てをお願いする日々が続きました。

その中で、子供も構って欲しいストレスと寂しさでイヤイヤが激しくなり、自分も心身が弱って対応できず、子供に対してもかなりひどい対応をしてしまう日も少なくありませんでした。

この子一人もちゃんと見れない私なんかが二人目を妊娠してはいけなかったのではないか、そう悩み涙する日。

あまりの苦しさにこのまま死んでしまいたいと思う日。

子供の泣き叫ぶ声にこのまま二人で死んでしまおうかと思ったことさえもありました。

そして、ついにこの全てを耐えてきた旦那さんにも限界がきてしまいました。

ふとしたことで子供に怒りをぶつけ、私が今まで聞いたこともない乱暴な言葉を浴びせることさえもありました。

私の方が怖くて、旦那さんが限界になりそうになると、子供を隠したりしました。

しかし、彼も悩んでいました。

自分が収められない、自分も、もう限界なんだとうなだれる背中に、全部自分のせいだと泣くことしかできない日々でした。
それでも、今までの流産があったからこそ、この子を絶対産もう、その決心がギリギリのところで私を支えてくれました。

そしてゆっくり、ゆっくり状態は改善していきました。

私のつわりが少しずつ落ち着く頃には、旦那さんも様々なバランスが取れるようになり、精神的に安定してきました。

そして子供も、こちらが本気で言っていることはわかってくれるような対応を見せるようになってきました。

そして、つわりがほとんど落ち着く頃には、旦那さんも家事育児をほとんど安心して任せられるようになっていたので、体調や状況を見て適切に動いてくれるようになり、子供も少しお兄ちゃんになって意思疎通がだいぶできるようになり、私も子供が一層愛しくて仕方がなく、今まで以上に愛を注ぐようになっていました。

 

本当に一時は地獄だと思えた過程を経て、一層家族の愛情と絆が深くなる機会となったことを感じています。
それも、振り返って見れば、今までの辛い経験があったからこそ、その過程の中で夫婦としても成長できたし、今回のことも耐えうることができたんじゃないかと思っています。

 

最後に

先日、神様の前でお互いを一生の伴侶として誓ってから、五周年を迎えました。
その日、お祈りして感動のまま家族でドライブに出かけ、海の見える公園で散歩をしたりして楽しみました。

帰る時間になったところで、子供が遊具の広場に戻ると行って駆け出してしまい、夫婦で追いかけました。

家の形の遊具が気に入ったらしく、その下で何やら石を並べたり、小枝を集めたりに夢中な様子。

その間に、二人で神様に感謝を込めて思い出の賛美歌を歌いました。

すると子供が「パパとママの誕生日!」と言いながら歌を歌ってくれました。石と小枝はケーキでした。

旦那さんが「5年目の結婚式みたいだね」と言ってくれました。

しかも遊具の広場の後ろはなんと、私が流産の悲しみを乗り越えることができた、あの結婚式場でした。神様の導きは計り知れないと感謝するばかりでした。

本当に、最後まで行ってみないとわからないことが、あまりにも多いです。
特に子育ては、結果がすぐ見えないから日々悩むしかないです。

それでも、摂理で出会った神様という存在が、いつも自分を愛してくださり、御言葉ではっきりと方向性を示してくださるから、自分はなんとかここまでやってこれたし、これからもやっていけると信じています。

親も個性体だし、子供も個性体です。

子育てに正解はあるでしょうか。

いっぺん通りの答えを与えられるよりも、その都度より良い道を探すとき、寄り添ってくださる絶対的な存在がいる。

私はそのことを本当に感謝してこの証を終えたいと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

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